コミュニケーション



今日はTくんとものすごくよく目があった。
自分から、遊んで〜って駆け寄ってきて、
遊んでる時もTくんはニコニコ笑いながら私の目を何度も何度も覗き込んできた。

Tくんの目線や表情、身体の各部分の動き具合、力の入り具合に応えて、
私も遊びや表情、言葉で返す。
とてもたくさんのことを交わし合って、たっくさん遊んだ。


重度の自閉症の子に接した事がある人ならわかると思うけど、
彼らと目が合うということはとても稀で、
何度も目を合わせるということが既に、活発なコミュニケーションで、多くの伝えたい事がそこにはあるのだ。

昨日、英語ができるようになりたい、という事を書いたけど、
そもそもそう感じたきっかけは、映画を字幕の文字や吹き替えなしで直接に受け取りたいと思った事だった。

映画に限らず、日常の会話も文学も、言葉には、意味だけじゃなくて言語そのものがもつ語感や音声やニュアンスがある。
さらに言えば、言葉は本当の事を表すとは全く限らず、全く逆の事もあり、
言葉の奥に本当の事があると私は思ってる。

一歩でも奥へ行きたい。
英語ならば、和訳の奥へ。
さらには、言葉というものの奥へ。

自閉症の定義には、コミュニケーションの障害や社会性の障害ということが言われるけれど、
たとえば外国の言葉とて、お互いにわからなければ障害と言えなくもない。

そういう障害物となるものを超えて、奥へと進み、存在同士で直接にコミュニケートしたい、という思いがすごくある。
心理学を学ぶのも、同じこと。

コトバの表面よりも、「何がそうさせるのか」「何がそう言わせるのか」。
そういう部分に光を当てたい、という気持ちが元々強い性質なのだけど、
コミュニケーションに障害を持つ子どもたちと日々過ごす中で、
奥へ、奥へ、という思いがますます強くなってきてます。

私の持つアトピーや蕁麻疹といった皮膚疾患は、スピリチュアル的にはコミュニケーションの課題を指してる、とも言われるのですが、ある意味そうだろうなあとも感じてます。
コミュニケーションの問題を解決すれば皮膚も良くなるのだ、とかそういうことではなくて、良いも悪いもなく、取り組んで行くものの象徴のようなものと、私はとらえています。
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by tsunagumono | 2014-01-09 19:26 | 子ども


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